(公社)富山県鍼灸マッサージ師会による会報139号(2017.7)9頁です。
富山支部 内田雄二
平成29年5月7日、(公社)富山県鍼灸マッサージ師会館3階ホールにて富山鍼灸学会の総会に引き続き、午後1時から4時まで 『孔穴と経脈の概念と変遷史』と題して、茨城大学名誉教授 真柳 誠先生の御講演がありました。
冒頭の『現在に繋がる三陰三陽十二経脉の概念が出来上がるのは11世紀である』『始めて聞くような話』という印象的な語句で始まった御講演は、2時間半にわたるものでした。御講演の概要を真柳先生がまとめた表をもとに補足して現わすと次のようです。
前4Cの『封診式』には打膿灸が行われており、膿を出すのに?石が使用されており、孔穴は正中線で下向きに列をなしていた。経脈はまだ無い。
前3C『馬王堆』出土文献では、打膿灸、?石、を使用し三陰三陽はあるが、臓腑とは関連付けない手足十一脈であった。
前1・2C『老官山』人形には臓腑名、灸刺点との関連を認識。この頃から灸刺点への命名が序々に始まり、初期の孔穴概念が形成され、それが05頃の『素問』、100頃の『九巻』(現『霊枢』)に反映される。又このころ金属微鍼法が普及した。経脈篇(『九巻』所収)では、灸法を鍼法に発展させ、臓腑と全身を脈気が大循環する12脈を提起した。
250年頃の『明堂』は(失われたが『甲乙経』巻3(4C)で所引=甲乙『明堂』)正中線上に49穴、身体に片側300穴でした。甲乙『明堂』の配穴は頭部・身体では、部位別であり、背景には部位別の配穴法・灸刺法あったのではないか。
675年楊上善の『黄帝内経明堂』は原『明堂』の手足12脈の灸刺配列を『九巻』経脈篇の循環説で並び替え、頭部・体幹の孔穴も臓腑12脈と任脈・督脈に分配した。この上善『明堂』は日本にのみ伝えられたが、現経絡・経穴説を『予見』していた。中国では上善『明堂』は唐代に散逸した。
宋代、1027年に王惟一が楊上善と似た発想で353穴の『銅人?穴鍼灸図経』を発刊し以後経絡・経穴の第一典籍となった。
その後中国では宋・王執中の『鍼灸資生経』、日本では元・滑寿の『十四経発揮』、朝鮮では『銅人?穴鍼灸図経』が大きく影響をあたえた。
概要は以上のようです。私は『明堂』の存在そのものを知らなかったし、新発見の豊富な資料を使った新知見の講演であり、格調高い講演でありました。古代中国人が孔穴を発見し、又営々と努力して臓腑経絡学説を創り上げた事に感謝したいと思います。
講演される真柳先生